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2024.05.17

社員コラム

情報収集とリアルタイム共有でピンチをチャンスに 

著者:宝泉 博章

情報収集とリアルタイム共有でピンチをチャンスに 

営業担当者が個々に活動していた時代が終わり、チームでエリア全体をカバーするエリアマーケティングが主流となった昨今。このエリアマーケティングでは、チームによるこまめな情報収集とそのリアルタイム共有が重要です。 
 その二つを見事に実践し、絶体絶命のピンチを大きなチャンスへと変えた事例が、日本の戦史に名高い桶狭間の戦いです。「海道一の弓取り」こと今川義元(1519~1560年)を「尾張の大うつけ」こと織田信長(1534~1582年)が破った、日本三大奇襲のひとつです 
 
敵の首より情報収集を重視した桶狭間に見る信長の先見性 
【勝利を確信しての奇襲攻撃】 
遠江国、駿河国(ともに静岡県)、三河国(愛知県の一部)を治める今川義元は、1554年、甲斐国(山梨県)の武田信玄、相模国(神奈川県)の北条氏康と、甲相駿三国同盟を締結。後顧の憂いを断つと、1560年、大軍を率いて尾張国(愛知県の一部)への侵攻を開始します。迎え撃つのは織田信長。のちに天下を手中に収める傑物も、当時はまだ尾張統一もままならない小大名でした。 
 京を目指して西上する今川軍は2万5千人、対する織田軍はわずか2千人です。多勢に無勢の状況下、家臣の多くは籠城か降伏かで議論しました。しかし、信長が選んだのはまさかの先制攻撃でした。 
 一か八かの賭けに打って出たように見える信長ですが、その行動の裏には確かな勝算がありました。 
 まず、信長は、義元は馬ではなく輿を使うため進軍速度は遅く、こまめに休息を挟むとにらみます。そこで、家臣の簗田(やなだ)政綱に義元の所在の探索を命令。簗田政綱は配下を四方八方に飛ばし、各所から上がってくる今川軍の動向を逐次、信長へ伝えました。そして義元が桶狭間で休息しているという情報を手に入れた信長は、ただちに現場へ急行し、電光石火の奇襲を敢行。見事、義元の首を討ち取ったのでした。 
 
【恩賞から分かる信長の認識】 
 義元の首を挙げたのは、毛利新介という家臣です。しかし、戦後の論功行賞で勲功第一に選ばれたのは、情報収集と逐次報告に貢献した簗田政綱でした。しかも恩賞は3千貫文(現代の貨幣価値で約3億6千万円)に沓掛城(愛知県豊明市)という破格のもの。いかに信長が、情報とリアルタイム共有の重要性を認識していたかが分かります。 
 
【IT社会の現代でも時代の寵児に】 
 桶狭間の戦い後、信長は尾張国を統一します。そして、今川家から独立した三河国の松平元康(徳川家康)と同盟を締結。背後の備えを盤石にすると、美濃国(岐阜県)やがては近畿へと勢力を拡大し、天下への道を拓いていきました。そのなかでは、キリスト教の布教許可や鉄砲の積極的な活用、楽市楽座の採用など、内政・外政の両面で革新的な技術や考え方を導入していきます。過去の古い形式にとらわれず、常に時代の先を見据えていた信長なら、現代もITを使いこなし、時代の風雲児となっていたことでしょう。 
 
最新の情報収集と必要な情報の共有は、当社でも最優先事項になっています。情報の重要性が増す時代にあって、サイバーリスクはすべてのユーザーの安心を脅かす存在になりつつあります。皆様があんしん安全にwebなどを通じて情報のやり取りができるように、当社も一助となってまいります。 

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